宮本百合子2

 労働時間のことは、労働組合のかけ合う問題という風にだけ考えることは、人間として大切なその意味をつかんでいないことになる。男女平等と憲法でかかれたとしても、男女が平等に十時間も十一時間も働いて、くたくたになって、かえったら眠って翌朝また出勤して来るだけのゆとりしかなかったら、その男女平等は、男女が平等に人間以下の条件におかれているというにすぎない。
 男女が平等ということは、同じ労働に対し同じ賃金ということを当然約束しているけれども、これまでの日本の実状では、同じ職場で同じ部門に働いている男女が必ずしも同じ程度の腕をもっているとは云えない。女は、これまでじきやめてしまうもの、やすいから男の代りに使うものとしてつかわれて来たのだから。きょうの若い勤労婦人は、自分たちの人間らしい生活という考えのなかに、だれでも、仕事の上での発展の希望を加えていると思う。十年一日のような、見とおしのない、あてがい仕事を苦しく思っている。では、その希望を実現するために、事務技術の向上、または専門関係の知識を深めるために、講習をうけるとして、さて、時間の関係はどうだろう。勤労婦人が、家庭の女の用事と二重に働らかなければならない困難はあらゆる人が経験している。夜は不用心で、こわくておそくなれない。勤労時間を一部さいて、そういう専門の講習を与えるように、婦人職員、従業員の価値は重んじられていない。そうだとすれば、同一労働同一賃銀ということは、勤労婦人自身にとって自信のあるよりどころを持っていないことになる。そのために、労働基準法で、母性保護の諸条件が多くなることで、雇主は、一人当り費用の多くなる婦人を使うより生理休暇のいらない、深夜業の出来る男を使った方がいいと、逆に勤労婦人の生活安定をおびやかすことにもなって来るのである。

 衣類または服装と婦人との社会的な関係をあるがままに肯定した上で、これまで整理保存の方法、縫い方、廃物利用、モードの選びについてなどが話題とされて来ている。けれども考えてみれば女性が縫物をすることになったのは一体人間の社会の歴史の中でいつ始まったのだろう。糸を紡ぐこと、織ること、そしてそれを体にまとえるように加工することは非常に古い時代から女のやることであった。これはギリシア神話の中のアナキネという話の物語にでも推察される。アナキネは大変美しく可愛い娘で、織物を織ることが上手であった。みごとな織物をする上に美しいものだからオリムパスの神々の間にさえ大評判になった。神々の首領であったジュピターはその大変美しい織物上手の娘が好きになった。ジュピターの妻ジュノーの嫉妬がつのって、到頭哀れなアナキネはジュノーのために蜘蛛にさせられてしまった。そんなに織ることがすきなら、一生織りつづけているがよい、と。女神から与えられた嫉妬の復讐として、美しい織物ばかり織りつづける蜘蛛にさせられたという伝説の中には、女はいつも糸を紡ぎそれを織らなければならないということについての悲しみの感情の現れがあると思う。しかもそれが、神の罪のように逃げられない運命と語られているところに古代のギリシアの社会でその仕事が何かしら、幸福の表徴としてはうけとられていなかった証拠だと思う。ひろく知られているところのギリシアの社会は、人類の若々しい文化をはじめて花咲かせ、古典文化のつきない源泉となったが、このギリシアの繁栄と自由とは奴隷使用の上に咲きほこっていた。人口比率は一人の自由人に対して五人ぐらいの奴隷があって、その奴隷が生活に必要なすべての労役的仕事をしていた。紡ぐことも、織ることも、縫うことも、奴隷がした。主に女奴隷が主人たちの必要のために糸を紡ぎ織りして、主人たちは直接そういうことをしなくてもよい生活を送った。そういう社会構成の上にギリシアの自由都市は築かれていた。アナキネの物語は、ギリシアの社会に、婦人の本当の自由がなかったこととともに、女に課せられている紡織仕事に対し疑いをもっていたことがうかがわれる。

 絶え間なくスルスル……スルスル……と落ちて来る雨は此の木の上にも他のどれもと同じ様に降り注いで居るのに、楓のどの部分も目に見えぬ微動さえ起さないで、恐ろしい静けさで立って居る。
 何と云う落付いた事なのか。
 此のしなやかなたよたよしい楓がそよりともしないと云うのは――
 若し指を触れたら温かい血行を感じ人間の皮膚の通りな弾力を感じるだろうと思う程「なまなましたふくらみ」を持って居る木は、私に植物と云うより寧ろどうしても動物――而かも人間の女の様な気持を起させた。
 余り柔かである、美くしすぎる。
 余り静かにして居る。
 その周囲からまるで離れたものの様にして居る姿を見守って居ると、自分の心までもすべて此の躰のすぐ近くで鳴り響き動き戦いて居る現在の有様からはなれて、雨も降らず雨垂も落ちない、非常に静かな世界に住んで居る様な心持になって来た。
 私は此上ない愛情と打ちまかせた心とで木を見て居るうちに、押えられない感激が染々と心の奥から湧いて、彼の葉の末から彼方に一つ離れて居る一つ葉の端にまで、自分の心が拡がり籠って居る様になって来る。
 彼の木は静かである。
 私の心も静かに落付いて居る。
 それだのに外には雨が降って居る。